02. エルフリート聖典 イーリヒト記 終章

 終章 ― 122

「神の中の神、主の主、そして我が父上エルフリート、我にイーリヒトを救わせ給え」
 天の柱の影に伏してエリジアンはエルフリートに請い願われたが、エルフリートはそれをお認めにならなかった。
「慈愛の神、我が子エリジアン、そうして幾度そなたは救い続けるのだ。人間の業に終わりはなく、不幸は死に絶えることがない。善人も罪人も、老人も若者も男も女も昔も今も未来も全てを救い続けるというのか。そなたの小さな身体はそのようには作られておらぬ」
「主よ、あなたはこれまでもそしてとこしえに、赤子から老人まで全ての人間に裁きをお与えになるでしょう」
「そうだ。それは私の役目である」
「ならばエリジアンも役目を果たします」
 エルフリートは首を振り、露台から界隙の向こうを覗き込まれた。その先には人間の世界があり、イーリヒトの父がイーリヒトを抱いて神殿の礼拝堂で膝まづいている姿が見えた。
「イーリヒトはもちろん、イーリヒトの父も咎人ではありません。信仰厚き善人です」
「生まれたばかりのイーリヒトに確かに罪はなかろう。だが父は違う。これまでそなた何度あのものを救うた? そのためにそなたの失くした物は指一本だけか? そうではあるまい」
 エリジアンは袖の下に腕を隠し、呼吸を整えられたが、ご自身が酷く衰弱していることをエルフリート神に見抜かれていると悟られた。
「それに引き換え、あの男は何を差し出した? あのものがすることは常に祈ることだけだ。そなたが何度手を差し伸べ、機会を与えてやっても、次の不幸が訪れればまたそなたの手をすがることしか考えぬ。これは立派な怠惰の罪である」
 エリジアンはイーリヒトの元に下って行き、救いは与えられないことをイーリヒトの父にお伝えになった。
「北方の国に、その病を治す手立てを知るものがいます」
「主よ、私に神に与えられたこの地を離れ、病の息子を抱いて冬を越える旅をせよと仰せですか」
「ほかに手立てはありません」
「私たちは神を愛し、神に愛された神の子だと思うておりました。神の恵みのない地でひとときとして生きられるでしょうか」
「……神は常にあなたと共におられます」
 イーリヒトの父が北方行きを決意する前にイーリヒトの病状は悪化し、旅をすることは出来なくなった。エリジアンは救いを行う許可をエルフリートに何度もお求めになったが叶えられず、ただイーリヒトの傍らで涙を流し続けられた。悲しみの日は百日余り続き、エリジアンの流した涙は河となって界隙に流れ込んだ。
 イーリヒトの父はイーリヒトがいよいよ死ぬという段になっても与えられぬ救いに絶望の叫びを上げた。
「主よ、神はもう私も、イーリヒトも愛しておられないのでしょうか」
「神は全ての人間をとこしえに愛しておられます」
 そしてイーリヒトは命を落とし、イーリヒトの父は泣き叫んだ。
「神が我らを愛してくださらないのなら、我らも神を愛することなどない! 我々に恵みも救いも与えない神ならば、存在していないと同じこと! 神など――」
「おやめください、それ以上神を侮辱して罪を重ねてはなりません」
 エリジアンはイーリヒトの亡骸を抱き上げてご自身の涙をぬぐわれた。
「イーリヒトを返せ! お前など! 子供のお前など! お前の力が足りぬからイーリヒトが死んだ! おかしいではないか、裁きを行うのは主の主、王の王で、救いを行うのはこんな小さな子供であるなどと! もとより救いの手は足りぬように作られておるのだ! お前の手が、もっと大きければイーリヒトは零れ落ちずに済んだのだ! イーリヒトに何か落ち度があったのか? 罪があったのか? 神というものは二言目には罪、罪、罪。では聞くが、イーリヒトを見殺しにしたお前に罪はないのか?」
「……そうですね。では、私も罪人になりましょう」
 エリジアンがそう仰ると、腕の中の遺骸が発光し、イーリヒトが息を吹き返した。イーリヒトの父は途端に大喜びして神を賛美したが、その表情はすぐに恐怖に変わった。エルフリートが下って来られたからである。エルフリートの表情はいつになく険しく、巨大な身体から怒りを漲らせておられた。
「……エリジアン」
 搾り出すような声が響き渡った。エリジアンはエルフリートの足元に叩頭された。
「なんということをしてくれたのだ」
「申し訳ありません」
「反魂は禁忌、神とてその裁きから逃れることはできぬ」
「承知しております」
「慈愛の神、我が子よ。主の主たる我に子を裁けと申すか。父への愛はどこへやった」
「申し訳ありません」
 エリジアンは反魂の禁忌を犯した罪で死罪となり、エルフリートは嗚咽を噛殺してエリジアンの胸に裁きの槍を突き立てられた。そしてエリジアンに禁忌を犯させた罪により、イーリヒトの父もまた死罪となった。
「お許しください、主の主、神の神、私はエリジアンがわが子を救えば死罪になるなどと存じませんでした」
「貴様はエリジアンが禁忌を犯したから自分も罪人となったとでも思っているのか。お前はエリジアンに頼るばかりで何も差し出さなかった。そのくせエリジアンが救いをもたらさなければ自分は祈ることすら放棄して神を侮辱した。神が救うから人が祈るのでは順番が逆だと気付きもしないのか。愚か者めが。この罪貴様一人では終わらせぬぞ」
「そんな……イーリヒトは、イーリヒトだけはお助けください」
「もはや口を開くことも許さぬ」
 イーリヒトの父は裁きの槍ではなく、死神の鎌で首を落とされた。エルフリートは続いてイーリヒトを殺そうとお考えになったが、エリジアンの命と引き換えに救われた命の灯を消すことがどうしてもお出来にならなかった。
「赤子よ、エリジアンの苦しみを知るがいい。愛しいものを救えず、ただ自分ひとりが生き続ける苦悩を知れ。光奪われし者よ。満たされることのない闇を満たそうと周囲から命の光を奪い続けるが良い。己の命は神の命の灯を奪って永らえたのだと知れ」
 イーリヒトの髪の毛はたちまち光を失って黒くなり、瞳は暗闇を映し、肌は夜を纏ったようになった。エルフリートはイーリヒトに死ぬことを許さず、苦しみをお与えになり続けた。イーリヒトに子供が生まれると、ようやくイーリヒトは死ぬことを許されたが、イーリヒトに与えた闇は子供に受け継がれ、呪いは途切れることがなかった。

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