16. 賢者の花

 アルハイム帝国の皇宮の中心に乱れ咲いているのは、いつの世も白い薔薇だった。皇宮がザヴィーニに置かれていたときはもちろん、クーダムに移ってからも、白い薔薇を皇宮の庭園いっぱいに散りばめることが当然のように行われた。白い薔薇は皇家の象徴であり、この花が咲いて心地よい重量感のある香りを振りまいていることはすなわちそこが皇帝の住処であることを示す。
 白い薔薇が皇家の象徴として用いられるのは「王者の花」という伝説に由来している。「王者の花」によれば、一番最初にアルハイム大陸を統一した英雄は「白い花」の力を持ってその偉業を成し遂げたという。「白い花」は言葉どおり植物の花であるのか、あるいは武運や勝利を司る女神の比喩であるのか、伝説の詳細は不明である。文書化されているわけではなく、各地で語り継がれる伝説はそれぞれ微妙に異なっていた。共通するのは、「白い花」は持つものに王に必要な資質を全て与えるということである。英雄として君臨するのに必要な戦闘能力や機を掴む運はもちろんの事、人心を掴む自信に満ちた言葉の操り方、表情、物腰、場合によっては王者にふさわしい容姿までも授ける。今の皇家がアルハイムを支配するようになってからは、その「白い花」は国教であるエルフリート信仰と結び付けられ、エルフリート神が真の王者に授けた白い薔薇のことであると定義づけられた。これにより白薔薇は皇家を表す花として皇宮の庭を飾るようになった。
 ところで、「王者の花」にはこの手の伝説につきものな後日談がある。白い花のおかげで大陸統一を果たした「最初の王」には彼の覇業を陰日向で支えた腹心「賢者」がいた。賢者は統一直後は磐石に見えた「最初の王」の帝国も、平和な時を経るにつれ疲弊し始めた事に気づいた。民は自分達の住処が外敵に脅かされないのが王のおかげだとは考えなくなり、臣下は戦場での王の力を思い知る機会も失われて機会があれば自分でも王になれるのではないかと考えはじめた。賢者は再度民の心を王に戻し、臣下に王の力を再認識させるための施策を「最初の王」に進言したが、王は首を振るばかりだった。王は若さゆえの傲慢さを失うと同時に、「白い花」の力が強大すぎる事に対し恐れを抱き始めていたため、「白い花」がさせようとしたこと以外、何もしようとはしなかった。再三の進言が受け入れられないことを悟ると、賢者はあろうことか自ら皇宮内外で皇帝に叛意を持つものを扇動して謀反を起こした。月のない、完全なる闇夜のことだ。「最初の王」は最も信頼する臣下である賢者の叛乱にひどく衝撃を受けたが、彼の王者としての資質が――あるいは「白い花」が――この叛乱を迅速に、圧倒的武力をもって完膚なきまでに鎮圧せよと主張するので、それに従った。
 叛乱勢力は最初こそ不意打ちのおかげで優勢であったが、絶対的な数は少なく、皇宮は外敵からの攻撃に強いつくりになっていたので次々と敗北を喫した。最後には生き残った賢者と残る数名のみが一晩の追走劇を繰り広げたが、夜明け前に捕縛された。賢者を始め謀反の首謀者達は公開処刑されることとなり、それぞれ独房へ収容された。公開処刑の前日の夜、「最初の王」は賢者の暗い独房を訪れ、静かに座している賢者になぜ謀反を起こしたのかと問うた。

「私の役目は陛下を真の王者にすることでした。そして、今やその役目は終わり、私に出来ることは何もありません」

「最初の王」は失意に濡れた手で懐の短剣を抜くと、賢者に自害を勧めた。賢者は礼をいい、短剣を受け取ると「最初の王」が何か言葉をかける間もなく一息に自らの喉を掻き切った。インク壷の中よりも暗い独房いっぱいに賢者の鮮血が飛び散り、賢者は王に叩頭するかのようにばったりと倒れた。王はしばらく真紅の海の中に立って骸を見下ろしていたが、やがて自分の「白い花」を取り出すと賢者の骸の上に置き、独房を後にした。法院の衣に包まれて蹲っている死体はまるで既に刑死者の入れられる袋に入っているかのように見えたので、王者は墓穴に花を投げ入れる献花の行為を思い出したのだ。葬式など出されることのない謀反人にささげられるにしては、随分な花であった。
 賢者の死体は翌朝、公開処刑場へと連れ出す刑吏によって発見された。刑吏が証言したところによると、あれほど奇妙な死体は見たことがないという。天井の明かり取りから射した朝日が死体の上にきっかり窓の形に白い四角を描き、その中心に吸い込まれそうな濃い黒の花が咲いていたというのだ。首を刃物で切り裂いたことは確かなのに、独房の中に血だまりはなく、心臓の病で死んだかのように床は乾いていた。まるで、賢者の体の中に埋まっていた花の種が、彼から流れ出た血を全て吸い取って、朝日を合図に芽吹き、血に染まった花をつけたかの様だったと。
 謀反により引きずり出された皇宮内外の不穏分子を一掃したことによって、帝国は一時息を吹き返した。その後「最初の王」は統一を成した頃のように精力的に統治を行ったが、彼の「白い花」は賢者に手向けてしまったので、真の王者であり続けることは出来ず、彼の帝国は今では存在していない。


 隣に立つミハエルが感想を求めるような目でこちらを窺ったのでラングはしぶしぶ口を開いた。
「今の話だと、白い花というのは英雄を象徴する高貴な花というよりは、手にするものの開花と枯死を司る呪いのアイテムに聞こえるな」
「後日談の方を真に受ければね。しかし、後日談は公式にはない事になっている。ほら、童話なんかでも残酷な後日談を付け加えるやつがいるだろう」
「しかし伝説に公式も非公式もないだろう」
 ミハエルは声を立てて笑った。
「皆、なんだかんだ言って訓話が好きなのさ。物語には何らかの教訓が無くちゃいけないと思ってる。童話もそのままじゃ子供だましだから、大人に対する『現実はそんなもんじゃないよ』という警告を忍び込ませずにはいられないんだな」
「じゃあ、『王者の花』伝説にはどういう訓戒がこめられているんだ?」
「さてね」
 かすかに甘い香りを含んだ風がやってきて、ミハエルの横顔を撫で、髪を揺らせた。ミハエルは近衛でも一番に美しい金髪を押さえ、目の前に芳香を放ちながら気高く咲き誇る白薔薇へ視線をやった。その灰青の瞳には、皮肉な笑みをたたえた口元とは相反する寂しげな光が浮かんでいた。
「ただ、俺はこの後日談が気に入っている。どこがと言われると困るけど……」
「へぇ」
「ラングは?」
「……『この王の末裔が、現在のアルハイム皇家なのです』という終わりじゃなかった点は評価したい」
「ははっ、それじゃあ今の皇家が『白い花』を持っていないことになってしまうじゃないか」
「それはそうだな」
 湿気を含んだ沈黙が降りてきた。なんとはなく、ラングも白い薔薇に目を移す。薔薇は、晩夏の風に身を晒して恥らうように花弁を震わせていた。
 長い沈黙――ラングとミハエルは儀杖中であるので、本来それが正しいあり方なのだが――の後、ミハエルは物言いたげにラングを窺った。
「もし――」
 ミハエルの形の良い唇がわずかに動いて、そして言いかけた内容を忘れてしまったように動きを止めた。だが、ラングにはその続きは聞かなくとも分かった。ラングも同じことを考えていたからだ。
 ――もし、現在の皇家が『白い花』を持った英雄で、その後日談があるとしたら。
 先の皇帝、ギルベルトは「王者の花」に描かれるにふさわしい真の王者だった。勇ましい姿で戦場を駆け、多くの敵を屠った。玉座にあっては堂々たる威厳で、声を発すればその朗々たる響きで臣下に憧憬と畏怖を同時に抱かせずにはおれなかったという。生まれながらの王、王の中の王と帝国中の臣民に誉めそやされた。しかし、この生まれながらの王にして、弑逆されることを防ぐことはできなかった。殺したのは先帝が常に側に置いていた臣下だ。遺言で皇帝の座を嫡子ユーベルに譲ると記したまでは良かったが、その後見人を弟のオペール=パライス公ライマーではなく、ユーベルの教育係のオストハルト伯爵ヴェストに委ねるとの記述が、遺言状の真贋論争を引き起こした。実際には論争などという対等なものではなく、ヴェストが自己の利益のために遺言を捏造し、あまつさえ先帝暗殺に関わったという嫌疑がかけられ、これに対し一ヶ月足らずの間に否定するに足る確固たる証拠を提示することがヴェストに要求されたというものだった。
 確かに、ヴェストは暗殺された先帝の第一発見者であり、遺言状を含めた現場の一切を強引に取り仕切るなど疑わしい状況は揃っていた。おまけに元から高級貴族のお歴々から「若造のくせに」と煙たがられていたヴェストである。宮廷中がここぞとばかりに排斥にかかるのは当然のことで、これに対する策をとらなかったのは切れ者と噂されたヴェストらしからぬ失態であった。
 結局ヴェストは証拠を提示することが出来ず、幼い新皇帝ユーベルを拉致して帝都ザヴィーニを出奔し、クーダムに遷都を宣言する。ザヴィーニ側はヴェストを謀反人と断定し、ザヴィーニこそが正統な帝国政府であると主張しているが、当の皇帝であるユーベルがヴェストに従っているため、その正当性は完全とは言えない。
 ヴェストとライマー、どちらが真の謀反人であるのか、下々の人間には判断材料すらない。現にクーダム朝に仕えているラングですら、自分の市国がクーダム側につくことを決めたためにそうしているだけで、ヴェストが本当に先帝暗殺に関わっていないかどうかは正直なところ良く分からなかった。
「賢者の花はクーダムに咲くのか、それともザヴィーニに咲くのか」
 あまりにも不穏当な言葉にラングがぎょっとしてミハエルを見ると、その眉間には深く皺がよっていて、冗談で言ったのではないことがわかった。
「……あるいはどちらにも花は咲かないのか」
 後宮の中庭は近衛に断り無く立ち入る者など皇帝とその後見のヴェストぐらいのもので、実際辺りには人影ひとつなかったが、だからといって絶対誰の耳にも入らないとは言い切れない。
「その逆もあるとは思うけどね」
 ラングの嗜めるような視線に気づいたのか、ミハエルは軽い口調で言って表情を和らげたが、発言自体の不穏当さが変わったわけでもない。
「皇宮のド真ん中で避暑効果抜群の話をどうもありがとう」
「……悪かった」
 ミハエルは素直に口をつぐみ、ラングは再び白薔薇に視線を戻した。
 田舎市国で育ったラングは先帝のことは風の噂で耳にしただけだ。白い薔薇はラングに、その花を持つにふさわしいとされた先帝よりも、体に不釣合いな玉座にちょこんと腰掛けた幼帝ユーベルを思い起こさせた。金糸で刺繍の施された純白の装束に身を包み、柔らかに波打つ金髪の隙間から真っ直ぐにラングを見下ろした透き通るような瞳は、凛と咲く花そのものだ。
 クーダムか、ザヴィーニか。その議論の線上からはいつも当の皇帝であるユーベルが置き去りにされているように感じる。まだ御歳十歳そこそこであるから当然なのかもしれないが、それはひどく不当なことのようにラングには思えた。……いや、不当というのは語弊がある。それは丁度、獅子の子供の目の前で、狐とイタチが獲物の兎を巡って争っているのに似ている。
「なんにせよ」
 ラングは白い薔薇を見つめたまま呟いた。ややこしく考えるのは好きではない。
「俺達は陛下の近衛だ。どんな状況だろうが、ただ陛下をお守りするだけさ」
「もちろん、そのつもりだ。そのために、この剣がある」
 ミハエルは白薔薇の紋章の刻まれた剣をスラリと抜くと、宙に投げた。剣は伸びやかに回転しながら昼下がりの陽を反射して鋭利な光を放った後、カシャン、と小気味のよい音を立てて元の鞘に収まった。

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