04. 守護者 ビルシャナ

 跳躍位置のやや手前、足が大地を掴んだ瞬間、ビルシャナは奇妙な違和感を覚えた。他人の術中に嵌ったときに感じる物理法則が捻じ曲げられたような感触。あたりを見回そうとした瞬間にヤシュトが叫んだ。
「ビルシャナ、光のマグを竜に!」
『モウバド』を使う気か!
 ビルシャナはヤシュトの声で瞬間的に悟って足を止めた。足元には巨大な円陣とそれに内接する正五角形とその対角線が描かれ、さらにそれぞれの頂点にかけられた呪の紋と言が書き込まれていて、自分はその丁度中心近くに足を踏み入れようとしていた。
「たわけ! この状態で『モウバド』など使えばお前たち全員死ぬぞ!」
「馬鹿はどっちだ! さっさとマグを! タイミング逃す気か!?」
 竜は先ほどビルシャナ達が与えた翼の付け根の傷から体液を撒き散らしながら結界に向かって来ている。結界は悲痛な鳴き声を上げて綻びかけている。
(あの結界が破綻する前に竜を――)
「ビルシャナ様! 他に方法がないのは分かってるだろ!」
 ダートの声は怒気を含んでいた。彼はビルシャナに対しては常に冷笑的な態度を崩さなかったが、それは彼の生命がビルシャナに握られていることの理不尽さに対する恐怖と怒りからだった。自分の死を自分で選ぶことのできない恐怖、それは決してダートの弱さを示すものではなく、むしろアシャの誰よりも現実を直視していたのだろう。彼は毎日毎日、このような日の訪れることを想像し、覚悟していたに違いない。
「俺たちはどっちにしたってガルディナの道連れで死ななきゃならないんだ。今更何を迷う? 犬死させるな!」
「ダート……」
 胸の結晶核がほのかに熱を持ったように感じた。ビルシャナは胸当ての上からそれをそっと押さえる。結晶核だけは、何に代えても守らなくてはならない。
「ビルシャナ、ガルディアは共にあるのだな?」
 ヤシュトが真剣な眼差しの奥で、なぜか笑っているように見えた。ビルシャナは円陣の中心で深く息を吐き、そして再び息を吸うと共に胸を張ってアシャ達を見据えた。
 ガルディアは行けと言った。ガルディアは笑っているように見えた。私の契約の伴侶、全ての命の親。とろけるように流れる亜麻色の髪といつも変わらぬ濃紺の長衣を、私はガルディナになって以来雨の日も風の日も昼も夜もこの目で見てきた。私はガルディナだ。ただ私だけがガルディアを守れる。ただ私だけが島を守れる。
「神は死なぬ!」
 ビルシャナは腹の底から歓喜に似た興奮が湧き出てくるのを感じた。
「ガルディアはとこしえにわれらと共にある!」
 ビルシャナは剣を収め、手を頭上に掲げた。
 炎を吐き終わった竜はひび割れた結界に体当たりを始めた。亀裂が大きくなり、空気の裂ける音が響き渡った。
「ラト!」
 ヤスナの叫び声。
「はい!」
 ラトが答えた瞬間、結界は霧散し、体当たりをしていた竜は勢い余って円陣の上空まで転がり込んできた。
(『モウバド』!!)
 五本の光の槍が天空を貫いた。あの日とは比べ物にならない太さの光の柱だ。あたり一面の紫の炎の海が、金色(こんじき)に染まっていく。竜はその強烈な光に一瞬たじろぎ、動きを止めた。ビルシャナはその瞬間を逃さず腕を振り下ろした。
「『審判』!」
 厚く垂れ込めていた紫に淀んだ雲が裂けた。閃光が爆発し、続いて大木の割れるような音がした。真っ白に染まった視界がようやく輪郭を取り戻しかけたときには、空に巨大な磔台が浮かび上がっていた。正五角形の対角を結ぶ柱に縫いとめられた竜は、頭が割れそうな甲高い咆哮を上げ続けた。
「汝の光もて死の谷底を曝け。汝の正義もて闇を裁け。命を生み出すものはその命の終焉を統治せよ」
 竜から発せられる耳障りな哭き声が止まらないのを見てとって、ビルシャナは口早に続けた。
「正のフラワシに君臨する者よ! 我が請願に応えるべし、我は地上の神アヴェスタの守護者、名は――」
 竜がもだえながら地に堕ちた。既に炎で荒れて岩石砂漠となった大地が崩れ落ち、人間の背丈ほどもある岩が無数に飛び散った。ビルシャナ目掛けて飛んできた一つに、一振りの細身の剣が突き刺さり、粉砕した。剣の飛来してきた方向では、ヤシュトが息を切らして無理やり笑顔を作っていた。
「周りは俺たちが見張っているから、詠唱に集中しな」
 わずかに上ずった声だが、彼はビルシャナが投げ返した剣を受け取るとしっかりした手つきで鞘に戻した。
「ビルシャナ様が詠唱してるのなんて、初めて見たぜ」
「確かに、そうだな」
 頷いたフワルタクの顔も苦痛を隠しきれない。
(本当にアシャ達は死ぬかもしれぬ……)
 ヤシュトの言うとおり、ビルシャナはマグを習得したごく初期を除いて、詠唱を行ったことがない。そのような制限を付けてマグの威力を上げる必要を感じないほどの力を持っていたからだ。
「久しく詠唱などしていないから文句が思い浮かばん」
 アシャを失うかもしれないという実感は、ビルシャナを不機嫌にさせた。おもわず投げやりに発した言葉にアシャ達は苦笑で応えた。
 マグの威力が上がれば上がるほど、その通り道となるアシャ達の負担は増える。詠唱などしなくてすむのならそれに越したことはないが、現状は竜を地面に這い蹲らせるので精一杯で、息の根を止めるには至っていない。
「『死ね』とかでいいだろう。ビルシャナ様の『死ね』ほど怖い言葉はないぞ」
 ヤシュトの軽口にアシャ達は弱弱しいながらも笑い声を上げた。
「ヤシュトの馬鹿は放っておくにしても、格好を構っている余裕はありませんよ、兎に角強い思いの乗る言葉をお選びください」
 黒の血族の継承権二位(アシャに就任したため継承権は失ったが)らしく、マグの仕組みに明るいヤスナが諭した。
「……無駄口を叩いて体力を削るな」
 地に伏した竜の熱い鼻息がビルシャナの足元まで届いた。それだけで火傷しそうなほど熱い風だ。絶え間なく鋭い牙の間から漏れる呻きは、もはや大地の小刻みに揺れる音と判別が付かない。四肢と尾を磔にされた竜は首をもたげ、憎しみの光に満ちた赤い瞳をビルシャナとアシャに向けた。
 まるで、ビルシャナ個人に恨みでもあるかのような視線に、ビルシャナは心中で首を傾げた。自分が「審判」を行使したからか? いや、この竜たちの狂ったような侵攻、数百年前に当時のガルディナがシン界と交わしたといわれる不可侵協定を無視した振る舞い、何かがおかしい。
「……竜よ」
 ビルシャナは竜に歩み寄った。
「今更和平を試みるつもりもないが、もし言葉を解するなら一つ聞かせてくれ。……我々に恨みでもあるのか? お前たちが我々を憎む理由はなんだ? なぜ協定を破る?」
「……」
 言葉を理解したのか、竜は不機嫌そうに目を伏せたが、言葉は一言も発しなかった。
「……では、残念だがこちらも余裕がない。死んでもらおう」
 ビルシャナは背中の大剣を引き抜いた。
「『執行者』」
 大剣が燃える様に輝いた。ビルシャナは剣を上段斜めに構え、竜を睨みつけた。半眼の竜との睨み合いの後、竜の口がわずかに動いて、炎の気配がかすかに大気に染み出した。ビルシャナが素早く跳躍した瞬間、炎が竜の口から吐き出された。ビルシャナの立っていた場所は炎に吹き飛ばされ、火線上の円陣に立っていたヤスナはとっさに対呪マグで練り上げたマントを被って炎をやり過ごした。
 ビルシャナは跳躍した高度から、竜の頭目掛けて降下した。ビルシャナが剣を振り下ろすと同時に竜も避けようと頭をわずかに動かしたが、四肢を固定されているせいでビルシャナの剣から逃れることはできなかった。そして、神々しい光を放つ大剣が吸い込まれるように竜の額に沈んだ。先ほどまで剣を全く受け付けなかった竜の額も、『モウバド』で増幅された強化マグには耐えられなかった。ビルシャナが剣を引くと、額から勢い良く体液が溢れ出てきた。額から飛び降りて見ると、額から流れる体液の量に反比例して、竜の体を常に覆っていた紫色の燐光が弱まっていき、最終的にはほとんど見えなくなった。間断なく聞こえていたうめき声もいつの間にか聞こえなくなっている。
「……やったのか?」
「……わからん、油断するな」
『死んではいないが、時間の問題だな。最下級の神の分際でずいぶんとしぶとい……』
 ビルシャナは驚いて振り返った。背後に物静かな青年が佇んでいる。どんなに風が吹こうと乱れず、どんなに雨が降っても濡れる事のない守護神の幻の肉体は泥をすすってもがいている戦士たちの只中にあっていかにも不似合いであった。
「アヴェスタ、寝て居ろと言った!」
『モウバドなど使われては騒がしくて寝ていられぬ』
「……すまん、文句は後で聞く。とにかく下がって――」
 それは、アヴェスタがビルシャナではなくその背後のものを見ていると気づいた瞬間の事だった。アヴェスタの瞳に見たことのない色の光が宿った。それは、恐怖の色に似ていた。
『――ッキサマダ……ユルサジ!』
 それが初めて発した竜の言葉なのだと気づいたのは全てが終わった後だった。

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