05. 二のアシャ フワルタク

 視界が真っ白に染まるまではほんの一瞬の事だった。ほんの一瞬ではあったが、たくさんの事が起こった。そして、視界が真っ白に染まった瞬間からは、さらに多くの事が起こった。
 額への強力な一撃で竜を倒したかに見えたガルディナが、急に背後を振り返ったのは、おそらくガルディアのためだろう。
 フワルタク達は経験から、ガルディナが不可解な行動を取るとき、それは自分たちには見ることのできないガルディアを相手にしているのだと知っていた。
 しかし、その瞬間、ほとんど消えかけていた竜の体表の燐光が爆発的に明るくなった。心臓が引き裂かれそうな負の感情の塊が無遠慮に襲い掛かってきて、竜が何事か叫んだのが聞こえた。それとほとんど同時に、フワルタクは「ああ自分はここで死ぬのだ」と深く悟った。彼が自分で思ったよりもそれは静かな気持ちで、悲愴さとも自己憐憫とも無縁だった。ただ、何十年も前から、自分はそれを知っていたような気分だった。
 しかし、その静かな気持ちは足元に響いた金属音で中断された。フワルタクは最初、自分が剣を取り落としたのかと思ったがそうではなかった。足元に転がっていたのはアシャの証である腕輪であった。
「ワータ、俺の分も頼んだぞ」
 フワルタクは言葉を発することもできず、目の前のヤシュトが傍らにやってきたヤスナと目配せを交わすのを見守った。ヤシュトが姿を消すと同時にヤスナは対呪用のマントを投げて寄越し、瞬時に結界を構築した。日頃防御結界は苦手だとぼやいている割にはその手際は鮮やかで、わずかにフワルタクとヤスナを囲い込むだけの大きさの円の上に、薄い青の光の糸で編まれた飾り編みのカーテンが垂らされているようだった。
 フワルタクは「焼け石に水だろうけど、一すくいの水で命永らえることもあるから」とヤスナに言われてマントを被った。本当はフワルタクの気のせいだったかもしれない。何しろ全ては一瞬の間のことだったのだ。そんな言葉を発する時間はなかった。
 足元に落ちていたヤシュトの腕輪を自分の腕輪の隣にはめ、ヤシュトの行く先を見やると、ヤシュトはビルシャナの前に飛び出して、どこにそんな力を残していたのか眼前に構えた双子剣の交差する面上に強力なフラワシの壁を構築していた。
「相変わらず腹立つ男ね。あんな芸当、黒の血族の当主でも出来ないわよ」
 これもまた、フワルタクの幻聴だったかもしれない。このとき既に島の全域は強くなりすぎた竜の燐光で真っ白になっており、その光によってわずかの例外を除いた全てが消滅しかけていたからだ。
 白い世界は結界の解除後も何とか生きながらえた少数の島民を連れ去った。同じく紫の炎に耐える体力を持っていた少数の獣も連れ去った。幼く体力の低いラトの命を連れ去った。そのラトに覆いかぶさってラトを守ろうとしたダートの命も連れ去った。鈍臭い筋肉馬鹿を守ろうとした黒の血族のエリートも、ヤシュトに文句を言いながら死んでいった。そのヤシュトも、光の矢面に立って壁を支え続けたせいで、ようやく視界が元に戻った頃には灰の塊に成り果てていた。
「ヤシュト!」
 悲鳴のようなビルシャナの叫びが響き渡った。ビルシャナがヤシュトに駆け寄ると、その指先がヤシュトに触れる寸前にヤシュトの体は崩れ落ちた。乾いた音を立てて転がったヤシュトの遺体を呆然と見下ろすビルシャナの足に、風に舞ったヤシュトの残骸が名残惜しげに絡み付いた。
「……気休めは止せ。単なる蘇生ならともかく、肉体再生と反魂を同時に行えるほど今のお前に余裕がないことは分かっている」
 硬い声でビルシャナが呟くのが聞こえた。その顔は蒼白で、フワルタクは近くに寄って声をかけたいと思ったが、体が何一つ言うことを聞かなかった。もしかすると、自分も肉体はもう死んでしまったのかもしれない。
 竜はあれだけのエネルギーを放出したにもかかわらず、まだビルシャナと、その傍らに居るであろうガルディアに向かって毒の光と呪いの言葉を吐き続けていた。
「コロス、コロス、コロス、コロス……」
 ビルシャナはヤシュトの欠片を拾い上げるとじっと見つめ、しばらくするとそれを手の中で握りつぶした。手から零れ落ちた灰がサラサラと風に乗って流れていくのを、ビルシャナの視線は追いもせず、ゆっくりと目を伏せた。しばらくの後その目を再び開いたとき、ビルシャナの眼光は竜のそれに劣らない怒りを主張していた。その怒りの波長に乗せて押し殺した声が届く。
「……守護神アヴェスタの守護者の名において命ずる」
 ビルシャナは大剣を握りなおし、その場で高く掲げた。
「――『死ね』ええええぇっ!」
 振り下ろされた大剣の剣圧が大地を竜に向かって一直線に走った。竜は「コロス」と繰り返しながら突進してきて、それを避ける様子もない。ビルシャナが気勢を吐くのに合わせて剣圧は勢いと破壊力を増し、正面から突っ込んだ竜を大地と天もろとも引き裂いた。空と大地を覆っていた紫の炎が引き裂かれ、薄闇の空と土の色が覗く。
 三人がかりでも傷を付けるのがやっとだった翼も、モウバドの力をしてようやくかち割った額も、まるで野菜か何かのように頭から尾の先まで綺麗に二等分された竜の姿にフワルタクは息をのんだ。
 アシャのほとんどが死んでモウバドの効果は失われているはずなのに。
 一瞬の後、思い出したように大量の体液を吐き出すと同時に竜が息絶えると、空に立ち込めていた紫色の雲が晴れた。その様子を見上げていたビルシャナが、フワルタクに気づいて駆け寄ってきた。
「ワータ、生き延びたか!」
 フワルタクは頷こうとしたが、首が動かない。
「無理をするな、今ガルディアに快癒させる」
 ビルシャナはフワルタクの傍らに膝をつき、背中を支えた。五星宮の丘は島の全ての方角の海を見下ろすことができる。ビルシャナは東の海にフワルタクの体を向けた。
「ようやく夜明けだ。見ろ」
 ビルシャナの指差した先で、水平線が白く光った。一瞬後には水平線から頭を出した太陽が、闇色の海と空を黄金のような輝きで染めていく。その様子を眺めるビルシャナの顔も太陽に照らされて、先ほどまで死人のように蒼白だった顔色が幾分赤味がかって見えた。全身がギシギシと痛んでフワルタクの長い夜の記憶を蘇らせさえしなければ、まるでいつもの単調な一日の始まりのようだ。
 まだ湿気を含んでひんやりと鼻腔を満たす朝の香り。アシャの宮から五星宮までの道のりを彩る季節の花々、昆虫、まだ眠っている小動物。木々の葉を透かして地面を照らす太陽を背に、小さな人影が手を振りながら駆けてきて、いつものように軽口を言いながら五星宮のひんやりとした薄暗い円卓を囲むのだ。
「……ビルシャナ様」
「今は何も言うな」
 ビルシャナはフワルタクを抱きかかえたまま顔を背けた。
「五星宮に戻るぞ。ボロボロだが、曲がりなりにも建物の体をなしているのはあそこくらいだ」
 フワルタクの体を支えようと、彼の二の腕に触れたビルシャナはアシャの腕輪が二つ付いていることに気づいたに違いない。ハッとした様子で視線を戻すと、ビルシャナは下のほうにはめた腕輪の表面をなぞった。金をベースに銀と銅を組み合わせた象嵌細工で表現されているのはそれぞれのアシャの地位が象徴する概念で、中心部分には地位にかけられた呪の文言が彫りこまれている。フワルタク、すなわち二のアシャが象徴するのは「信頼」、筆頭アシャが象徴するのは「忠誠」だ。
 フワルタクは自分の肩に生温かい雫が次々と落ちるのを感じたが、先ほど主君から受けた命令通りじっと押し黙っていた。

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