劇場にて

 ミハエルの乗馬の蹄の奏でる間延びしたリズムを遠くに聞きながら目を閉じると、生暖かい風が潮の香りを運んできた。辺りの空気はどこか生臭く、垢抜けない懐かしい味がした。
 やがて人通りも絶えた道の右手に大きな屋敷が見えてきた。背丈の倍ほどの高さの壁が延々と道の先までそびえているが、内側から頭をのぞかせる木々の向こうに、王宮のそれにも劣らない石造りの鐘楼が見えた。
 壁には蔓が這っていて、垂れ下がる房には無数の白い花が静かに風に揺れ、その度に甘ったるい香りをあたりに振りまいた。
「このあたりだ」
 前を行くミハエルが馬を停めたのでラングも手綱を引いた。馬が短く嘶き、その場で足踏みをした。ラングは身を乗り出して鼻を撫でてやった。
 馬を停めたすぐ横には、大きな門がそびえたっていた。
 道沿いに続いていた石造りの壁の切れ目に備え付けられた門には、鉄の格子で出来た両開きの扉がはめ込まれている。片方の扉だけで馬が三頭は悠々通行できる程の大きさだ。門の上では鉄を銅で彩った騎士が大きな馬を駆っている。門の奥には、庭園と大きな屋敷が静かに佇んでいた。身分の高い貴族の屋敷か、あるいはラングの知らない皇家の離宮だろうか。
 ラングが剣を振りかざす鉄の騎士を見上げていると、ミハエルはいつの間にか門番の少年に言いつけて門を開け、馬を中に進めた。
 門の中のしつらえも立派なものだった。多種の低木を計画的に配置した植え込みは、さまざまな色味の緑色がモザイク模様を描き、庭園の中央を屋敷の正面へとまっすぐに伸びる道には白砂利が敷き詰められており、庭木の緑と目の覚めるような対比を構成している。
 改めて正面から見上げると、屋敷には圧倒される威厳があった。貴婦人のドレスのように優雅に広がる大階段の先に立ち並ぶ柱には幼い神の姿が刻み込まれていた。寛容と慈愛の神エリジアンだ。聖衣から短い手足をいっぱいに伸ばして、それでも抱きとめられない悲しみにその瞳はいつも潤んでいる。
「皮肉な像だ」
 ミハエルは馬から降り、階段のたもとから像を見上げた。ラングも馬を降り、ミハエルの傍に立ってこちらを見下ろす神の視線に頭を垂れた。
「ここだ」
 ミハエルは膝を折り、階段を薄く撫でた。
「幼い頃、ここに住んでいた」
 ラングはミハエルの背中に視線を移した。
「……ここに? ……確か、平民出身と聞いていたが」
 ミハエルは笑いともため息ともつかない息を漏らし、立ち上がると大階段の脇へと廻った。屋敷の地上階は城砦のような大きな石が積み上げられた窓のない造りになっていた。石は長年の雨風を受けて変色し、表面はなめらかだが波打つように変形していた。
「この建物、いつ作られたか知っているか」
 手のひらで石を叩きながら問うミハエルに、ラングは首をかしげた。
「さあ……だが、基礎の石がこれだけ古いのだ。それなりに由緒ある建物なのだろうな」
「大外れ」
 ミハエルはクスリと笑った。
「この建物の建設が始まったのは二年前。完成するのは一週間後だ」
 ミハエルはラングの腕を取ると、大階段を昇り、柱廊の先の扉を押しあけた。中には赤いビロードの絨毯が敷き詰められた玄関広間があり、正面にはさらに上階へと続く大階段が広がっていた。わけのわからぬままミハエルについて大階段の上の扉をくぐると、ようやくラングにもここが何の建物なのかが理解できた。ラングたちの立つ場所から階段状に下へ広がる客席、その先には幕の降りた暗い舞台。
「……劇場だったのか」
 ミハエルはボックス席の一つに腰を下ろすと、足を組んで大きく息を吐いた。
「ここには、以前にも劇場が建っていた。この劇場なんて比べ物にならないくらいの小さなショボい劇場さ」
 ラングは手近な席の肘掛に寄りかかり、ミハエルに先を促した。
「その劇場の隣のあばら家、それがシュミット一家の住処。まあ、一家と言っても父親と母親がいたのはほんの少しの間で、最初は父親が、次に母親がいなくなって、食いぶちがなくなった少年は隣の劇場で雑用係をして生活費を稼ぐようになった。さっきはショボい劇場と言ったが、それでも貧乏な少年の目から見ればお城みたいだったよ。白粉の粉っぽい空気や、女の香水と体臭が入り混じった独特のむせかえるような熱気、薄暗い照明にそれでも眩しいくらいに光る色とりどりのドレスに髪飾りに宝石。今見たらもしかすると安っぽいだけかもしれないが、その時はめまいがするほど美しいと思った。着飾った男女の間を細々と駆け回りながら小道具を運んだり、客からの贈り物を届けたり、馬車の手配をしたり。それなりにきれいな服も着せてもらえたしね。一番人気のソリストには、よく俺の金髪を褒められた。彼女はとても美しい黒髪の持ち主だったけれども、金髪に憧れていて、いつも舞台では金髪の鬘を被っていた。舞台が終わると俺を呼んで、客からの贈り物を受け取ると決まって頭を撫でてくれた。周囲の人は、彼女が金髪の鬘を被って俺を膝に抱いていると親子みたいだって口を揃えた。俺の本当の母親は物心付いたときから病気でいつもやつれていたから、もしも健康だったらあの人みたいに綺麗だっただろうかと想像したりね。楽しかったよ」
「繁盛していたようだな」
「だからこんな大きな劇場に建て替わったってわけじゃないよ。少年の働いていた劇場は跡形もなくブッ壊れたのさ。少年の家も右に同じ。十年ほど前のことだ」
「十年……まさか、ドラゴンの?」
「ご名答」
 ミハエルは立ち上がり、劇場を後にした。馬のところまで戻ると、ミハエルは振り仰いで鐘楼を指差した。
「あそこは元は灯台だったんだ。大きな、石造りの灯台。二国時代より前からあるって話だったけど、どうかな。とにかく古くて大きな灯台だった。ラングは見たことないだろうけど、空砦ができる前はここいらは漁が盛んで、船の行き来も多かった。それらの船全てがその灯台を目指してきたのさ。その辺の元漁師に聞いてみるといい。皆あの灯台は家に明かりをつけて夕飯を用意してくれている母親のようなものだと答えるだろう」
 ミハエルは馬を進め、門の外に出るとさらに海の方向へ進んだ。
「だが、灯台を目指してやってきたのは船だけじゃなかった。ドラゴンも真っ直ぐに灯台に向かってやってきて、真っ先にその尻尾で灯台を真っ二つにしやがった」
 ミハエルは腕を水平に振ってもう片方の腕に当て、灯台の折れる様子をラングに示した。
「どでかい石を積み上げた灯台は足元にガラガラと崩れ落ちて、一人の美しい少年の家と職場をいっぺんに瓦礫の下に生き埋めにした」
「お前は逃げられたのか」
 ミハエルはクツクツと喉を鳴らし、肩を震わせた。
「少年は壊滅的に頭が幸せにできていたので、そのときそこにはいなかった。ドラゴン迎撃のためにザヴィーニから本物の騎士が来ると聞いた近所の子供に誘われて騎士見物に行っていたのさ。ご丁寧に腰には木刀なんか差したりしてね」
 バサリ、とミハエルが純白のマントを翻す音がやけに大きく響いた。
 一本道は海まで続いていた。まるでそれは海への飛び込み台のようにためらいもなくまっすぐ伸びていて、その果てには不機嫌に沈黙する暗い海が超然と横たわっていた。
 ミハエルは馬から降りて近くに繋ぐと海に向かって歩き出した。まるで海の機嫌などお構い無しで、潮風の上を滑るように進み、ラングを振返りもしない。
 途中から舗装もなくなった道路は本当に海の口の中に向かってぱったりと途切れていた。辺りは建物もなく、乱雑に積み上がった大岩が今にも崩れ落ちて来そうな形相でラングとミハエルを見下ろしていた。
 途切れた道の先端に立ったミハエルは、じっと海を見つめていた。途切れた道の先にある世界に焦がれているかのように、真剣なまなざしだった。ラングにはそれが奈落の底への一方通行道路の入り口にしか見えなかったので、ミハエルがそのまま海の底に吸い込まれてしまうのではないかと非現実的な懸念を抱いて、静かにミハエルに近づいて行った。
 ラングがミハエルの肩をつかもうと手を伸ばした途端、ミハエルはマントを翻して振り返った。その顔は先ほどとは打って変わって朗らかだったのでラングは面食らった。
「あのあたりだ」
 ミハエルは手袋をした手を持ち上げて、沖を指差した。
「小さい頃に、あのあたりでよく遊んだ。貝が採れるんだ。持って帰って母上と焼いて食べるのが楽しみだった。軒先で火をおこして貝を焼いていると、近所の人たちが香りにつられて集まってきて、ちょっとおすそわけしたりね」
「へえ」
「でも、今じゃ浜は海の底だ。ドラゴンの襲撃でここら一体は地盤ごと沈没して、船も出せない。空砦ができてからは魚も住まないからどちらにしろ同じだけど。沖から見ると、こんな下町でも結構綺麗だったんだ。白い屋根が軒を連ねてね。夕焼け時には海が真っ赤に染まって、陳腐なたとえだけど、宝石みたいに光っていた。あの向こうに氷に閉ざされた大陸があるなんて思えなかったよ。……本当にそこからドラゴンが飛んできて、俺の全てを無茶苦茶にするまではね」
 ラングはただ黙って頷いた。ドラゴンの攻撃の届かない内陸の市国で安穏と暮らした人間に、口を挟めるわけがなかった。ミハエルは手袋を外すと、しゃがみこんで足元に打ち寄せる水面に指先を浸した。
「……あの劇場は陛下の出資で建てられたものだ。廃墟というか、瓦礫の山と化したこの地域に人を呼び戻すためさ。そのとき、未だに放置されたままだった灯台の残骸が基礎の石に使用された。あの惨劇を足蹴にして暢気に遊んでいるんじゃない、ちゃんとここで払われた犠牲は覚えているってアピールのつもりなんだろうけど。とにかく、劇場の周囲はその復興計画でずいぶんと整理されたけど、海岸近くはごらんの通りまだ瓦礫の山さ」
 ミハエルは立ち上がり、繋いだ馬の鼻を撫でた。ミハエルの良く使用する乗用馬は端正な顔立ちと知的な瞳の持ち主で、灰色の体躯に純白の毛並みがことさら美しいところもどこかミハエルに似ているように思えた。海風にそよぐ鬣を手で梳きながらミハエルは馬に語りかけるように口を開いた。
「立派な馬だ。毛並みも申し分ない。鞍も上等、剣も銘入りの宝剣、マントも軍服も絹で、銀糸の刺繍がこれでもかと施されている。晩餐会の警護に出れば、シケた劇場の数倍の人数が数倍も煌びやかな装いで目の前を通り過ぎる。……それでもまだ足りない。俺の失ったあらゆる美しいものを俺はまだ全然取り返せていない」
「……それが、近衛に入った理由か」
「神様は救えなかったと泣くばかりだ。あのお方の手じゃ大切なものは掬い切れず、あの方の足では大切な時に間に合わないんだ。俺は自分で取り返そうと思った」
 ラングは大階段の上の柱に刻まれたエリジアンの像を思い出した。「エリジアンの笑み」となぞらえられるほど有名な笑顔だが、実際に聖典を読んでみるとエリジアンは嘆いている箇所のほうが圧倒的に多い。それは、エリジアンが変えられる運命を変えようとしている人たちではなく、もはや人間の力ではどうしようもない運命に投げ出された者達を救おうとしているからだ。大抵の場合、それは神にも手出しを許されないことで、父であり主神であるエルフリートに戒められ、手出しを禁じられたエリジアンは落ち行く者たちをただ涙を流して見守るしかできないのである。
「……俺も、お前の髪は綺麗だと思うよ」
「……ラング」
 ミハエルは嬉しそうに微笑み、ラングの肩を叩いた。
「ちなみに、今目の前にある美しいものも取り返したいんだが」
 ラングは同情などしなければ良かったと頬を引きつらせ、ミハエルの腕を振り払った。
「俺はお前の物であった試しなどないし、取り返される義理もない」
 ラングは馬に乗り馬首を返すと、背後からミハエルの呼び止める声が響くのも構わず、元来た道を一気に駆け戻った。

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