北へ(03)

 ニルスの執務室は相変わらず西日が容赦なく照り付けていて、窓を背にして机に向かっている彼のシルエットを無駄に神々しく飾っていた。その中で口を蛸のように尖らせて必死で書類と睨みあうニルスの姿が滑稽に見えたのだろう。ミハエルの口から笑いともつかない乾いた息が漏れて微かに部屋の空気を震わせた。
 ニルスは先ほどから部下が戸口に立っているのに気づいていたが、その音を合図にようやく書類から顔を上げた。ミハエルは私服の襟を緩めて、タイを片手に握り閉めていた。
「……どうした」
 ミハエルは彼にしてはぞんざいな足取りで部屋に入ってくるとこれまた乱暴に応接用のソファに腰を下ろした。
「ずいぶん荒れているな」
 ミハエルは疲れ切った様子で、こめかみを押さえて肘掛にしなだれかかった。
「……ラングに振られた」
 ニルスは書き物の手を止めて一瞬、視線をミハエルに向けた。
「……そうか」
「俺には無理だったよ」
「……そうか」
 そんな気はしていた。まともな神経の持ち主なら、連日のミハエルの愛情表現に耐えられず早晩ニルスに泣きついてくる。それがないということは、ラングはミハエルを受け入れているか、そうでなければ徹底的にどうでもよいと思っているかのどちらかだ。
「あいつは陛下がどんなにあいつを気に懸けていらっしゃるかも知らず、俺がどれだけあいつを救ってやりたいと、そのためには手段を選ばないと思っているか分かろうともせず、そもそも自分が救われなきゃいけないことすら分からないまま、ジャンフェンに行かされるんだ。それで、自分はイーリヒトだから仕方ないと思いながら、一人凍えて死ぬんだ」
 ミハエルはさめざめと泣き出した。ニルスは自分のせいではないのに、いつも凛として真っ直ぐ立っているミハエルの小さく折り畳まっている様子を眺めて、心底罪悪感を覚えた。
「その件だがな。ジャンフェンには俺も行く事になった」
「……隊長が?」
 ミハエルは顔を上げて赤くなった目元を手にしていたタイで拭った。
「陛下がラングにジャンフェン行きを命じたは良いが、やはり心配だと仰ってな。こっそり跡を追うように言われた」
「それって要は尾行だろう。陛下は本当に心配なさっているのかもしれないが、閣下がそんな事言う筈がない」
「それに関しては陛下も閣下も同じお考えだ。ラングはジャンフェンに何某かの関わりがあり、陛下達の知らない何かを知っている」
 ミハエルは複雑な顔をした。急に口調が上官に対するそれに変わる。
「それは陛下もラングを疑っているって事ですか」
「悪意があるとまでは思っておられないだろうがな」
「根拠は?」
「あの女王様がな、炎を使ったと言うんだ」
「それが? ヴァーユの戦士は法紋を使うのでしょう」
「それを陛下に報告するとき、奴は『法紋とは似て非なるもの』と言ったらしいのだ。法紋自体、ジャンフェンの中でも限られた兵しか使わない。ジャンフェンの兵と直接戦ったことのあるものですら、間近で法紋を見たものは少数だ。見た奴は大抵死んでいるしな。それをなぜ、ジャンフェンと戦ったこともないラングが、『似て非なる』などと言えるのだ?
 炎だの風だの操る者がいれば、ジャンフェンの法紋使いだと思うのが普通だろう。現に今、お前も『ヴァーユの戦士は法紋を使う』と言った」
「ジャンフェンの戦士と接触があったと?」
「陛下と閣下はそう考えておいでだ」
「でも、ジャンフェン人と接触があること自体、それほど珍しいことではないでしょう。閣下の副官だって、ジャンフェン人ではないですか」
「もちろんそうだ。だが、陛下がいくら問いただしても、ラングは決してジャンフェンとの関わりについて口を開こうとしない。それは、ラングの接触したジャンフェン人が、そこらの一般人ではない、隠すだけの意味のある人物なのではないかと思わせる」
「……」
 ニルスは立ち上がり、机の上の書類を一枚取り上げてひらりとミハエルに示した。
「――委任状?」
「俺がジャンフェンに行く間、近衛隊を頼む。もし帰って来れなければ、そのまま後を継いでくれ」
「ちょっと待ってください」
 ミハエルは差し出された委任状を押し返すようにして立ち上がった。
「だったら、俺がジャンフェンに行きますよ。ザヴィーニの動きも読めない状況で、ニルスがクーダムを空ける必要なんて……いや、違うな。俺が行きたいんだ。行かせてください。やっぱりこのままじゃ……ラングがあんなままで良いとは思えない」
 ごく微かな笑みがニルスの顔に浮かんだ。
「陛下の勅命を頂いたのは俺だ。……それに」
「それに」
「俺はジャンフェン育ちなんだよ、ガキのころだがな」
「……!」
「誰にも言うなよ。陛下にも言ってないんだ」
 あっけにとられるミハエルの肩を叩き、ニルスは不敵に笑って見せた。
「だからもし、ラングを生きて連れ戻せる奴がいるとすれば、俺を除いては考えられない。……俺に任せろ。お前はクーダムにいて、ラングが生きて帰れたら、ちゃんと迎えてやって欲しい」
 ミハエルは何事か言いかけるように口を開いたが、ニルスの目をみて言葉を飲み込んだ。そして長い沈黙の後、力が抜けたようにソファへ再び身を沈めた。
「……土産忘れたら承知しませんよ」
 見上げた視線でニルスを睨むミハエルに、苦笑を返して肩を竦める。
「お互い損な性分だな」

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