01. 守護者 ビルシャナ

 まだ陽も昇らない闇の中、突如として北の水平線の向こうの空が紫に染まり、その紫雲の奥から無数の竜が飛来してきた。
 ビルシャナが異変を感知して寝台から飛び出し、上着と大剣を手にテラスに出ると、すでに大きく張り出した石造りのテラスの縁に、青年の端正なシルエットが浮かび上がっていた。彼にならって、その余りに禍々しい黒い影を寝室のテラスから遠く睨んだビルシャナは片側の頬を引きつらせ、青年の背中に言葉を投げた。
「親睦を深めに来た、という可能性は――」
『ない』
 島のガルディア(守護神)はビルシャナの問いに無慈悲にも即答し、美しい顔の眉間にしわを寄せた。
「アヴェスタ、お前の大事なガルディナ(守護者)の精神の安寧を守護しようという気持ちはないか?」
『私が『竜の大群が酒瓶と肴を手に無邪気な笑顔で飛んでくるぞ』と言えば、お前の心は安らぐのか?』
 アヴェスタは真顔で振り返った。
「……むしろ得も言えぬ不穏な気分で胸が満たされること請け合いだな」
『で、あろう。それに――』
「『神は嘘をつかない』のだろう?」
『その通りだ』
 ビルシャナはやれやれ、と肩を竦め武具を取ると、直属の護衛であるアシャ(神兵)五人をたたき起こし、島民に竜襲来の報を告げた。
「起きろ! お前たちの大好きな戦が始まるぞ!」


「マグ達はフラワシに余裕のあるうちに下がらせろ! ギリギリまで粘ると退却もおぼつかないぞ!」
 ビルシャナは破損した兜を脱ぎ捨てると長い銀髪を振り乱して背後の地上で結界を張るラトに向かって叫んだ。ラトは普段から気弱そうな顔をさらに歪めて今にも泣きそうな声を上げた。
「分かってます! でも、マグ達は全員限界で……」
「止むを得ん、避難させている序列外からもマグを召集しろ!」
「えっ……」
 ラトが困惑したように頬を強張らせた瞬間、ビルシャナの体よりも大きな爪が紫色の空を裂いて迫ってきた。爪からは毒液が染み出していて、滑っぽく炎の色を反射している。ビルシャナはとっさに大剣を構えて爪を受け止めるが、支えきれずに弾き飛ばされた。ヤシュトが小柄な体で素早く割って入り、彼よりも大きなビルシャナの体を支える。
「すまん」
「いや。……ビルシャナ様、序列外の連中は全滅したぜ」
 ビルシャナは信じがたい事実に目を見張った。自分たちも戦うと喚き立てる序列外の連中を苦労して島の南側に避難させた筈なのに。
「冗談を言っている場合か!」
 ビルシャナはヤシュトの腕を振り払って吐き捨てたが、いくら軽口の絶えないヤシュトとはいえ、こんな面白くもない冗談を言うはずがないことは分かっていた。
 ヤシュトは顔にかかった黒髪が鬱陶しそうに首を振り、剣を収めると髪を結っていた髪紐を解いた。元から不揃いな長さの黒髪は、剣戟の間に切れたり焼けたりしてますます無秩序になっていた。ヤシュトは自分の髪を一房つまむと、鼻に近づけて「うわ、臭ぇ!」と顔を顰めた。
「竜の炎に焼かれたんだ」
 ヤシュトは肩を竦めると髪を結いなおした。ヤシュトは誰よりも俊敏に動く体を生かすため、兜も金属鎧も身に付けない。要所を革で覆ったチュニックが戦闘服だが、布地の部分が半分焼け落ちて引き締まった白い肌が露出していた。兜に守られない頭髪は外側が焼け縮れ、髪紐からこぼれて広がってしまう。闇のマグには耐性がある黒の血族の血が混じっているせいで、竜の炎を食らったにしては被害が小さいとはいえ、艶やかで美しかった黒髪が煤けてゴワゴワになってしまったのはもったいないとビルシャナは思った。
 ヤシュトは手のひらに唾を吐きかけると炎で縮れた髪を無造作に撫で付けた。
「もう島中逃げるところなんてどこにもない。結界を張ってる五星宮以外、一面荒れ狂った紫の海みたいだ。竜の炎は燃えるものがなくなっても消えやしない。ずっと不気味な紫に光っている……対呪マグも数分と持たない。あれは序列外の連中には厳しいよ」
 珍しく神妙な顔のヤシュトに、ビルシャナも口を閉じた。改めて地上を見下ろすと、ヤシュトの言ったとおり、島は一面紫の炎に覆われていた。わずかに焼け残った樹木が海難者が助けを求めるがごとく、炎の海から苦しげに枝を伸ばしている。空中に留まっていても、その紫の光は絶え間なく体力を奪っていった。
「畜生が……!」
 ビルシャナは拳を握り締め、唇を噛締める。
「竜を畜生に分類すべきかどうかは別として、同感だ」
 ヤシュトはビルシャナの肩を叩くと、自分と彼女の剣に強化マグを掛けた。剣の表面がぼんやりと青く光る。
「ガルディアの竜巻を抜けて島に入った竜が三頭……二頭はなんとか始末した。残りはあのデカブツだけだ。そうだろう?」
 さすがに守護神というだけあって、気の遠くなるほどの数侵攻してきた竜のほとんどを、アヴェスタが巨大な竜巻の群れで討ち落した。だが、生き残った三頭それぞれが、島の一つや二つ簡単に滅亡させられる竜だったので、ビルシャナ達は死に物狂いで相手をせねばならなかった。現在、最後の、しかし最も大きく力の強い一頭が残っている。
 竜の広げた翼は五星宮を抱え込めそうなほど大きな影を地上に落としている。翼を張る骨は巨大な体躯に比べれば細く見えるが、近寄ってみると島のどんな建物の柱よりも断然太く、全身は螺鈿のように光る硬い鱗に覆われていて、生半可な武器では傷を付けることもできない。時折轟く咆哮は、それだけで大地を震え上がらせた。
「なんとも勇気の湧くお言葉だことだ!」
 ビルシャナは空を蹴った。好き勝手に炎を吐いている竜の、人間で言うところの頚椎の辺りに思い切り大剣を突き立てる。ヤシュトの強化マグが効いたのか、剣は竜の鋼鉄の皮膚を半ばまで貫いた。咆哮とも悲鳴とも付かないうなり声を上げて、竜が首を振った。ビルシャナは振り回されないよう剣を抜いて飛び退った。
「ビルシャナ、翼を狙え! 地上に落せば飛翔マグがない奴でも相手ができる!」
 ともすれば敬称を付け忘れるのはヤシュトの声だ。ビルシャナは無言で頷いて翼の付け根へ一太刀見舞った。それでも剣は翼を落すに至らず、厚い皮膚に埋もれてしまっている。一旦抜いてもう一太刀したほうが良いかと思った瞬間、細身の剣が重なり合うように二本、ビルシャナの大剣の上へ振り下ろされた。柄頭に色違いの宝玉があしらわれたヤシュトの双子剣だ。
「ちっくしょう、切れやがれっ……!」
 もう一人、跳躍してきた気配を感じると同時に、長剣が振り下ろされた。ビルシャナの剣がわずかに沈み込む。
「ワータ!」
 フワルタクの隆々とした肩の筋肉が、剣を押し込もうと渾身の力を込めて震えているが、しかしそれでも翼の半ばから先に刃が進まない。四本の剣に押し広げられた傷口からは、ドス黒い体液がひどい悪臭とともに湧き出てきて、地上へと滴り落ちていったが、竜の活動が阻害された様子はない。
「くそっ、一旦……がっ!」
 ハエを振り落とす牛の尻尾のように、竜の長い尾が三人を叩き落した。
「うわっ!」
 折り重なるように目の前に墜落した三人を、ラトは祈りの姿勢のまま迎えた。
「お、……お疲れ様でした」
「おうよ、疲れも吹き飛ぶ間の抜けた挨拶ありがたいね」
 一番最初に起き上がったフワルタクはガリガリと頭を掻いた。
「ついでに飛翔マグを掛けてくれると嬉し泣きできそうなんだが、ラト」
 ビルシャナも体を起こし、自分の身体から浮遊感が失われている事に気づいた。
「時間切れか」
「ラト、マグの掛け直しを――」
「ちょっと待て」
 落下時に投げ出された剣を回収してきたヤシュトは、ラトのほうに歩きかけたビルシャナの腕を掴んだ。
「ビルシャナ様は一旦ガルディアの様子を見に行け……じゃない、行って下さいませんか」
 いつもならヤシュトの言葉遣いを注意するフワルタクも、「確かに」と頷いた。
「ビルシャナ様、島がこんな有様ではガルディアのお体が心配です。ただでさえ力を使い果たされて弱っておられる折――」
 ビルシャナは弾かれた様に立ち上がった。ガルディアは島の全ての生物のフラワシを糧に存在している。島の大半が焼け落ち、生物が死に絶えては弱った体を回復するどころか存在自体すらも危うくなる。
「皆を頼む!」

 人気のない五星宮の二階、ビルシャナの寝室にガルディアは身を横たえていた。普段は磨き上げられた石の床に月明かりが美しく窓枠の模様を描き出す部屋が、竜の吐く炎の光に照らされて気だるい紫色に薄明るい。
「アヴェスタ」
 ビルシャナはささやくように呼びかけた。もし眠っていたら起こしてはならないと思ったからだが、実のところビルシャナはこの守護神が本当に眠っているのを見たことがない。
 案の定、直ぐにアヴェスタは目を開け、ビルシャナの方に首を向けた。
『状況は良くないようだな』
 言いながら起き上がろうとするアヴェスタにビルシャナは駆け寄った。
「起き上がってはならぬ」
『ふん……人間が神に命令するか?』
 近くに寄ると、アヴェスタの衰弱は明白だった。昨夜までは本当に肉体を持ってそこに存在しているかのようにはっきりと力強かった輪郭がぼやけ、寝台の向こうの布細工の模様が透けて見える。これはアヴェスタが弱ったせいなのか、自分のガルディナとしての力が衰弱して、ガルディアをはっきり認識できなくなっているせいなのか。どちらにしろひどく恐ろしいことだった。
『横たわっていたところで、休まる肉体を持っているわけでもない。姿勢など何でも同じだ』
「それはそうだろうが……」
『まあ、あの程度の竜一匹、人間達に任せねばならぬ状況だ。虚勢と思われても仕方ないな』
「そういうことを言いたいのではない」
『案ずるな』
 アヴェスタは島の支配者の頭に手を置いて、乱暴に撫で回した。戦で乱れたビルシャナの長い銀髪が、さらに汚く広がるのを気にも留めない様子に、ビルシャナは憮然と、しかし安堵の入り混じったため息をついた。
『神は死なぬ。……その結晶核を粉々に破壊されでもしない限りは』
 ビルシャナはアヴェスタの言葉につられたように、胸元の鎖を手繰って親指大ほどの石を取り出した。元来全く混じり気なしの透明な宝石だが、表面は周囲の光によって七色に輝く。今は窓の外の紫の光を受けて紫水晶のように見えた。
『その結晶核さえ生きていれば、私は必ず蘇る。……丁重に扱え』
「元よりそういう契約であろうが。大丈夫だ。命に代えても傷一つ付けさせぬ。万が一私が死んだら、また新たなガルディナを選んで結晶核を守らせるがいい」
『そのような面倒を神に言いつけたのガルディナは初めてだぞ』
 普段不気味なほどに表情のないアヴェスタの顔が心なしか微笑んだように見えたので、ビルシャナは安堵の笑みを噛殺して立ち上がった。
「嘘をつけ。ほんの百年前の事も忘れる健忘症の神が」
 わずかに気分を害したように黙り込んだ守護神の姿に、ビルシャナは不敵な笑みを贈った。
「横柄なガルディナで悪かった。――行く」
『行くが良い』

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